慶雲館について

慶雲館について

明治時代初期の頃の慶雲館

西山温泉 慶雲館は、北部・西部を南アルプス、東部を櫛形山系、南部を身延山地に囲まれた山間の町である「日本一人口の少ない町・早川町」にあります。
町名の由来になっている早川が町の真ん中に流れ、この川に沿っていくと湯川という沢に合流します。 かつて慶雲館は、早川沿いの傾斜を利用して四季折々の深山幽谷の風景に溶け込むように建てられた温泉宿でした。1997年、52代当主により、慶雲館を全国にアピールして、もっと多くの人に早川町を訪れてほしいという思いもあり、温泉だけではなくお料理やお部屋も喜んでいただける観光旅館として全館リニューアルいたしました。
近代純和風建築の粋を凝らす四階建ての作りは鉄筋であっても、館内は多種の木材をふんだんに使い、1300余年の歴史と伝統にふさわしい落ち着いた佇まいで、お客様をお迎えしております。

世界で最も古い歴史を持つ宿

西山温泉 慶雲館は慶雲年間(西暦705年)に開湯して以来、甲斐の山懐にすっぽり包まれた秘湯として、多くの都人、名将、文人に愛され続けてきました。大変ありがたいことに当時の源泉から今日まで一度も涸れることなく、こんこんと湧き続けております。2011年には「ギネスワールドレコーズ」で「世界で最も古い歴史を持つ宿」に認定されました。
慶雲館は、幾多の歴史を重ね、時の洗礼を受けようとも、決して変わることのないもてなしの心、日本の和の心を今に受け継ぎ、訪れる人をお迎えしています。

 

慶雲館の歴史

西山温泉 慶雲館の歴史は、慶雲2年(西暦705年)に遡ります。日本書紀によると和暦の元号は、西暦645年7月17日孝徳天皇の即位の時「大化」が始まりとされています。その後「白雉」になり、文武天皇の「慶雲」は5番目の元号になります。「慶雲」とは夕空に現れる吉兆とされる雲という意味があるそうです。この慶雲2年に藤原真人により発掘、開湯されたのが西山温泉です。
藤原真人は藤原鎌足の長子で学僧として渡唐し、出家し定恵と名乗っています。
真人は、この地方に流浪し「柳が島」に住んでいました。真人は土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけました。名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたといいます。

ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見したのです。試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快今までの労れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜びました。その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造らせました。やがて「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになりました。慶雲2年3月のことでありました。これが、西山温泉の起源と伝えられています。
医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々が湯治に訪れるようになり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていきました。
また、天平宝字2年(758年)には、46代 孝謙天皇(48代 称徳天皇:重祚)がご不例のため吉野にお移りになられた時、この山の霊泉が夢枕にたち、京よりはるばる80人ものお供を引き連れ慶雲館まで湯治に来られ、20日余りでご全快されたという伝説も残っております。

 

天文5年正月、武田家重臣穴山梅雪より寄贈された当館家宝『どら(銅鑼)」

信玄公、家康公の「隠し湯」として

西山温泉 慶雲館には、数々の都人や、戦国時代には数多くの名将が訪れたとも伝えられます。
天文年間には甲斐国主 武田信玄公が、天正年間には武田二十四将のひとり、穴山梅雪が幾度か湯を求めに訪れ、当館の守護神湯王大権現に「銅羅」を奉納されています。これは家宝として代々慶雲館の当主に受け継がれております。
また、日本統一のさなか、徳川家康公も二度にわたり入湯されたと伝えられております。このように多くの名将、文人、都人に愛されてきました慶雲館の湯は、今も涸れることなく湧き続けております。この類稀なる大地からの恩恵を大切に守ることは慶雲館の喜びであり、使命でもあるのです。